文豪ヘミングウェイの日課:Word count

どうしたら書く力を伸ばせるのだろうか。

一つの答えは、一定の英文を毎日書くことだ。書かなければ、書く力はのびない。単純なことだ。だから英文を生成することを日課にする。

ではどうすれば書くことが日課になるか。文豪アーネスト ヘミングウェイは、自分が書いたワード数を毎日カウントしていたそうだ。

He tracked his daily word output on a chart–“so as not to kid myself,” he said

Mason Currey “Daily Rituals: How Artists Work”

自分を甘やかさないために、アウトプットした英文をカウントし、毎日チャート表に記入していたという。

自分が書いた単語数をカウントし、毎日記録し続ける。このシンプルな行為が、文豪を生んだのだ。

英語学習に応用できないであろうか。英文を読み、サマリーを書く。ワード数を計算し記録する。やってみよう

速読英単語 標準編の使い方

私は入試対策の授業で、速読英単語 標準編を使用している。

もうすぐクラス内で70パッセージを読み終えるところまでたどり着いた。ここで反省を含め、振り返りたい。

受講生の英語レベルは、皆英検準二級レベルであった。英文法の基礎は固まっていないが、大量の英語を読み聞きしているので、大意を掴むことは割とできる。彼らに、11月までに英検2級合格を目指そうと語り、授業をスタートさせた。

結果、11月の時点で、英検2級合格は12パーセントのみだった。まだ入試まで時間があるが、不十分な成果と言える。

まず、速読英単語の英文を理解できない生徒が多かった。ブツ切れで入試問題が並んでいるだけなので、読む意欲を持てない生徒も多かった。読む意欲を引き出す工夫がいる。

文法問題もある。文法の基礎を身につけていない生徒は、入試レベルの英文をなんとなくしか読めていない。後置修飾、関係代名詞の構造が見抜けない。英文の骨格である主部と述部を認識できない。これであると、いくら英文を読んでも、ぼんやりとしか意味が取れない。英検2級合格できない生徒は、英語の選択肢や設問を誤読しているケースが多く、正答にたどり着けない。最低限、主節の動詞を見抜けるよう、指導する必要がある。

この速読英単語 標準編は、音声重視で学ぶのが良い。CDは、割とゆっくり読まれ、意味の句切れでポーズもあるから、理解を助ける。

常にCD音声を聞きながら本文を読む。まず黙読。

次に声を出して読むことをパラレルリーディングという。これも行う。

また漆塗りのように何度も読むのが良い。1回目は概要理解を目指す。せっかくの日本語訳を積極的に使う。

同時に単語の意味も確認する。CDを聞きながら、英文を黙読し、意味が頭に浮かぶようになればいい。

2周目は、文法の構造理解を目指す。1パッセージで、一つか二つに絞り、主部述部を見抜けるようする。教師は問いかけ、理解を促したい。

声に出して、五感を使う。


ICTを捨て、板書と写真で授業するメリット

教歴の浅い私は、最近は授業を行うことには慣れたが、授業の構成は自己流であった。本当に自分の授業はこれでよいのだろうかと悩んでいた。自分の所属学校では、周囲に授業を見てもらっても、社交辞令以上のアドバイスをもらうことはない。


そんなとき、ある団体が授業ビデオの公募をしていた。英語授業のプロたちに、自分の授業を見てもらえるチャンスだったので、自分の授業ビデオを撮り、送ってみた。選考に通過するかどうかよりも、自分の授業を改善したい一心だった。

案の定、選考には落選した。だがご縁あって高名な先生に授業改善の指導いただけることになった。

私の授業ビデオを見ながら、約2時間にわたり、私の問題点を次々に指摘されていく。ビデオ内の自分の授業を、英語教授法の理論と長年のご経験から、ダメ出しされていく。少なく見積もっても、30個以上の問題点をご指摘いただいた。

もっとこうすべき、と指導される。生徒との応答も、もっと自然な流れを考えろ、と怒られる。発問も、もっとわかりやすい表現を目指せと求められる。漫然と授業してきたことがさらけ出され、情けなく、なにくそと思わされる。

授業一つとってもこれだけ理にかなった指摘ができるのか。師匠の眼力、英語教授法の奥深さを痛感した。

正直に言えば、教師になって一番恥ずかしく、くやしい時間であった。
一方で、師匠とのこの2時間が、私の教師としての姿勢を変えてくれた。私はなにか考え違いをしていたのだ。

師匠はおっしゃる。「教室内のあなたは無表情で、淡々と授業をしているから、冷たい印象を与える。生徒に興味がないようにすら見える。これではだめだ」。感情を抑え、冷静に授業を行う方が、教師のあるべき姿だと思っていたので、びっくりしてしまった。

「笑顔足りないですよね」というと「それが考え違いだ。笑顔だけが表情ではない!」

「私たちの団体の教師は、みんなハートがあったかいんだよ。まず表情を変えなさい。でも笑顔を振りまけばいいわけじゃない」

「興味ありそうに真剣そうに頷くのも、表情。驚くのも表情。表情を自在に使い分けなさい。教師は百面相であるべきだ。表情や態度で生徒を引き付ける。教師は役者なのだから」

思わずはっとさせられた。単に笑顔を見せればいいわけではない。生徒を引きつけるために、表情を使い分けるのだ。良い教師は良い役者。時には道化役も演じなければならない。教師は百面相であるべき、とは衝撃的な言葉だった。

私は「笑わない先生」として生徒の間で認知されているので、たまに笑うと「先生わらってるよ」と反応されるほどであった。もし表情を抑えるより、表情豊かにして授業をおこなったらどうなるのであろうか。ためしてみたくなった。

他の教員から情報がとどくようになった。「最近、先生が表情豊かでなんかいいんだよね、って放課後に生徒がいってましたよ。あんなにやさしいひとだったなんで知らなかったって」

生徒は教師の表情をよく見ているものである。驚いた。

師匠の助言はさらに続く。

特に役立った助言は、「ICTをやめて、一度板書と写真を使ったアナログ型の授業やってみたほうがいい」というものだった。

失礼ながら「年配者はICTが苦手だからそういうのか」と思った。理由はもっと奥深いものだった。

師匠は、私の無表情や単調な授業の原因が、ICTに頼りすぎている点を見抜いていた。ICTを使うと、授業展開は楽であるが、スライドや写真に頼りすぎ、なにか私という生身の人間を生徒の前に差し出していない、よそよそしいような感覚が確かにあった。

これまでの授業では、ICTでスライドや写真を大量に準備し、板書せず、マウスをクリックしてスピーディに授業を進めていた。これは集中力の続かない生徒を前に、眠る好きをあたえないよう、止むに止まれず始めた授業方法だった。

自分の授業はなんとなく一方通行で、生徒とのやりとりが足りない。うわ滑っているように感じていたのだ。

先生に授業ビデオをみてもらうと、使いこなすべきICTに自分が使われていることに気づく。生徒へ注意を払えず、単に教科書をさらうだけの授業であった。それを見抜いた先生は、一旦ICTを捨て、チョークと写真を使ったアナログ授業をやってみるようアドバイスしてくれたのだ。

ICT一本槍で授業してきた私は、ICT使用をミニマイズし、どうしても見せたい写真以外には使わなくなった。これまで大量のスライド作成にかけていた時間を、オーラルイントロダクション、教材研究や板書案作りに当てるようにした。こちらの方がしっくりきた。

チョークと写真を持って授業し始めると、周囲が「どうしたの」「あれだけ使ってたICTは?」と驚き、心配してくれる。「チョーク一本と写真だけで授業したくなりまして」と言って、時間を見つけて教室で板書練習やオーラルイントロの練習をするようになった。

板書の書き方はこれで良いのか。不安に思って、早速授業の板書案を黒板に書き、先生に写真で送った。するとまず板書のアルファベット一つから直せと指摘される。

英語が苦手な生徒には、綺麗で読みやすいアルファベットを書かないと、認知しづらいためだという。wは角をしっかりつくり、bとdは膨らみを変えて認識しやすくする。スペルはデコボコさせず、平行線に乗るように書く。などなど、細かく指摘を受けた。

それを授業で意識すると、生徒が「読みやすい」と反応するようになった。細部に神々は宿る、という。アルファベット一つに気を配る大切さを実感した瞬間であった。

今思うのは、指導技術というものを、私はいかに軽視してきたか、ということだ。物を教えるということは、沢山の細かな技術で成り立っている。意識して磨かなければ、指導技術を磨くことはできないし、下手くそな教え方のままである。

ICTを使うと、どんな授業もそれなりに見える。見栄えの良いスライド、キャッチーな大画面の写真などは、細かい指導技術の修練なくとも、誰でも準備できる。

しかし一旦ICTを取り外して授業すると、教師は自分の指導スキルをさらけ出さざるを得ない。板書、立ち位置、やりとりなど、基本指導スキルが足りないと、生徒を引きつけ続けられない。

私の学校で、ICT交換時期に慌てふためく同僚がいた。恥ずかしながら私もそうだった。ICTなしで授業できないほど、機器に頼っていたのだ。やはりアナログに立ち返り、基本指導技術を磨くことは、教師の最低条件である。

こうした地味な指導技術は、今の時代に軽視されがちである。「教えない授業」「アクティブラーニング」のような耳心地の良いキーワードが世に溢れ、それを真に受ける若い教師も増えつつある。

例えば研究授業では、教師が教える時間を減らし、その分生徒を活発に活動させるだけで、授業の格好はつく。特に教師歴の浅い授業で、よく見受けられる。

だが細かな指導技術、教授技術に裏打ちされた授業と、そうで無い授業では、パッと見てわかりづらいが、生徒に与える影響に雲泥の差がある。アルファベットの技術一つとっても、疎かにできない。


今日も自分で授業したが、振り返ると「先生に合格点をもらえる授業ではないな」と、落ち込む。オーラルインタラクションの量も質も悪く、生徒に申し訳ないとも思う。もっと指導技術を磨かなければならない。


もしあなたが教師なら、自分の授業を映像にとって第三者に見てもらうと良い。映像とは残酷だ。何気ない授業の一瞬が切り取られ、格好のまな板の鯉になってしまう。

それを指導技術を真剣に磨いたベテランの先輩に見てもらうと、恥ずかしく、厳しいことも指摘される。だが学びは多い。

教師という仕事は、自分が教える立場になるため、人から指摘されることが少ないことを、社会人上がりの私は特に感じる。ともすれば独りよがりになりがちだ。

これを避けるため、英語教育団体に所属して、自分の授業をさらけ出すことが大切であろう。学校内はしがらみや利害関係があり、授業改善に活かせないことも多いので、所属先以外でアドバイスを受ける方が都合がいい。

謙虚さを持ち、基礎指導技術を磨くことが、教師として飛躍する第一歩だと、つくづく感じる。