母語の基礎を豊かにするための外国語教育

我々はなんのために「英語」を学ぶのであろうか。 この問いは、学ぶ対象をいわゆる「英語」ととらえるか、さまざまな「言語としての英語」ととらえるかで、答えも変わってくる。 『新英語教育』2000年5月号に、元東京外語大学の若林俊輔先生が、「言語教育の目標」についてこう書いている。 「(1)言語は(どのような形・方法にせよ)人間の生活に十分に深くかかわるものであることを知ること、および体験すること。 (2)言語は民族(あるいは、集落や地域など)ごとに異なるものであることを知ること、および体験すること。 (3)それぞれの言語には特有のルールがあることを知ること、および体験すること。 (4)言語は、多言語とのかかわりによって、それぞれに独自の変化をするものであることを知ること、および体験すること。 (5)言語は、人を生かすことも殺すこともできる存在であることを知ること。 外国語(英語)教育は、この(1)~(5)を基本としなければならない。」 そして最後に「課題」として次のように提言を結んでいる。 「上記「基本」は、本来、母語教育においてその「基礎」が築かれていなければならないが、日本の「国語」教育はこれとは無縁の存在である。そして、外国語教育は、その本来築かれているはずの「基礎」の幅、あるいは厚みを、さらに豊なものにすることに奉仕するはずのものだが、これまた、言語教育とはかけ離れた状態のまま現在に至っている。21世紀初頭の課題である。」 この文章が書かれたのは、いまから約20年前である。私は思わず頭をガツンとやられた気がした。 恥ずかしながら、は英語を実利的な面からしか、教えていなかった。私は外国語大から教員になる、といういわば英語教師の王道、エリート街道とは無縁の、雑草、路傍の石、どこの馬の骨ともわからぬものである。そもそも、外資系企業で異文化に触れ、そこからイギリスでビジネスの修士を取った背景がある。そこで「実際に使える英語力を育てる」という、イギリスの実用英語教育のすばらしさに触れて、教師を目指したので、無理もない話である。 生徒に英語をすきになってほしい、英語をつかいこなせるようになってほしい、世界に羽ばたいてほしい。英検資格などを取ってほしい。等々。そんな程度の思いで、これまで英語を教えていた気がする。もちろん、海外留学経験やビジネス経験から、日本人が実利的な英語能力を身に着けることは大切であることは重々わかっている。しかし、それだけでよかったのかと、この記事を読んで考えてしまった。 先生が言われた、「外国語教育は、本来築かれているはずの(母語による)「基礎」の幅、あるいは厚みを、さらに豊かなものにすることに奉仕するはず」という視点は、恥を忍んでいえば、持ち得ていなかった。 この視点に立てば、生徒を早い段階から英語漬けにすることは、立ち止まって考えなければならないはずである。2020年より小学校で英語が教科化されるが、それは母語である日本語でどっしりとした基礎を教え込んで初めて意味を持つ。単なる挨拶、簡単な会話を学ぶことは、英語に慣れる意味はあっても、それ以上の価値はあるのであろうか。 私は、全国通訳案内士の面接試験で、通訳技能の問題を体験した。留学を経て、大量の英文を処理し続けた結果、英語を英語のままで理解することができるようになったので、日本語を英語に通訳することは、正直言って好きではなかった。通訳案内士であるにも関わらず、通訳に興味がなかったのだ。 試験は、それこそもともとの英語力と、日本文化知識で、日本語の文章を読んだあと、意味をイメージし、その意味を英語で説明した。厳密な通訳とは言えないが、必要な情報は伝えられた。結果として合格したが、この日本語を英語に通訳することの意味を、通訳案内士の仕事としては必要があることはわかるが、いま英語教師をしている私には、どうにも縁遠いことのように思えた。 だが、若林先生の提言を読んで、日本語と外国語(ここでは英語)の世界を行ったり来たりすることで、気づきを得たり、新しい知見を得たりして、母語という言語の基礎の幅や厚みを豊かにするとしたら、これは「通訳」すること自体にも価値があるのでは、と思うようになった。 日本語を見て英語に通訳するとき、適切な英語が思い浮かばないことがある。文化の違いで、ぴたっと一致する言葉が存在しないこともあるだろう。 逆に海外から輸入された日本語を、なんの疑問も持たずにつかっていることが多いが、英語で何というかを考えて、その理由を分析すると、一気にその言葉の意味が広がって理解できる。例えば、紫外線と赤外線。英語で何というか、なぜそういうのかを調べると、その英単語は二度と忘れないほど、頭に入ってくる。その説明がすっきりしていて、逆に日本語での意味も、よく理解できる。母語の基礎の幅、厚みを豊かにする一例であると、若林先生は説明されていた。 英語を効率的に学ぼうとすれば、母語を捨てて、英語の世界に浸ればよいと考えるのは当然であろう。単語を沢山覚える、英文を早く読む、テストでよい点数を取るなどなど。 だが、外国語の能力は、結局は母語の土台の上に築かれるものであり、それ以上にはならない。その母語の土台は、効率一辺倒で取り組めば、幅広く、厚くなるものではない。 母語の基礎という土台を豊かにするために、母語と外国語との接触という、他の異質な刺激を手に入れられるということに、外国語を学ぶ意義があるとも言える。だから外国語学習では、母語である日本語を全否定せず、日本語と外国語を行ったり来たりすることに、ある程度寛容でありたい。そしてある程度の遊びや、一見無駄に思えるようなこと、立ち止まって考え、試行錯誤することを取り入れる余裕を持ちたい。 そして母語の基礎という土台の上に、専門性や専門知識を築き、それを外国語 をつかって他者とコミュニケーションしたり、逆に外国語をつかってインプットを手に入れ、母語の専門性に還元していく。 母語の基礎、土台を豊かにするための外国語教育であるならば、母語と外国語を行き来する「通訳」は、そこに何等かの気づきが学習者にある限り、意味がある学習法の一つになりうるのではと、通訳案内士は思う。20年前の若林先生の提言は、これまで通訳自体にあまり興味がなかった通訳案内士の私が、教育上の意義を感じる契機となった。 Goethe said it best: ゲーテは最もよく言いあらわした。 Those who know nothing of foreign languages know nothing of their own. 外国語のことを何も知らない人は、母語のことも何も知らない。

生徒が勝手に予習してくる授業

昨年度の授業から、私の日本語発話量を極力抑え、オールイングリッシュでの授業を行っている。 一昨年はオールイングリッシュ型の授業ではなかった。あるきっかけがあった。新しいクラスにはネイティブレベルの生徒も多数おり、彼らがある程度満足できるような授業にしなければ、とプレッシャーを感じたことが、一つの引き金であった。英語好きで、教師の質を厳しく品定めしているような生徒もおり、はじめの数か月は、本気で授業準備をしたものであった。 「高校の英語授業は英語で行うことを基本とする」という学習指導要領の方針もあり、まずは英語でどこまで授業できるか、生徒がどこまでついてこられるか、試してみた。 「英語ばっかりで、わかんねーよ」「進度が早すぎる」という生徒の言葉を耳にすると、日本語に戻そうか、と心が揺れた。しかし1年間貫くと、愚痴っていた彼はアンケートにこう書いた。 「この授業を1年受け続け、英語に対する考えが大きく変わった。自分の中で大きな出来事だった。苦手だった英語が、英検準2級を取れるまでになった」。 今の授業スタイルを、今年も続けている。相変わらず、授業スピードは速い。目の前の生徒たちは、必死で授業に食らいつこうとしている。こちらも英語でまくしたて、発話を促す。生徒にできるだけ英語を話したい、と思わせるように授業を展開していく。 最近気が付いたのだが、授業の予習をしてくる生徒が増えている。教科書の単語を調べてきたり、音読までしてくる生徒も出てきた。もともと、授業はじめのオリエンテーションでは、「予習不要。復習すべし」と伝えていたので、なんで予習なんかやってくるのだろう、と不思議に思った。 先日、ある本を読んで、はっと気が付いた。私はいままで気づかなかったが、「このスタイルは、生徒が予習せざるを得ない仕組み」と確かに書いてあった。この本の著者の授業を体験し、「これは使える」と確信して、授業に取り入れてから3年。この活動のおかげで、授業の骨格がピシッと決まった。どんなレベルの生徒にも機能する。続けるうちに、こちらの英語力も伸びていく。エキサイトする生徒をコントロールする術もわかってくる。授業のスタイルが徐々に磨かれていく。 つまり、私が取り入れている授業スタイルのせいで、生徒が予習したがる、予習せざるを得ないのだ。予習してこい、といったこともない。そもそも、勝手に予習してくるような、勉強好きな生徒たちでもない。 予習せざるを得ない仕組みは、グループワーク型の授業にある。相談する時間、教師の英語質問に対して、グループ対抗で答える時間を設けている。細かくは省くが、この「グループ活動」こそが、ピアプレッシャーとなって、生徒が勝手に予習してくる理由となっているのだ。 時にコントロールすることが難しいが、れはグループワーク型授業の良さであろう。 英語教授法をさらに学び、今後は研究テーマも設定したい。

多読多聴で伸び悩む学習者への処方箋

多読の実践 楽しみのために、自分がスラスラ理解できるレベルの英語の絵本を大量に読んだり聴いたりする活動を、多読多聴学習という。 これに対し、英文を正確に理解するために訳したり、確認問題を使って丁寧に読むことを、精読という。 英語を日常で使う機会が限られている日本では、多読多聴活動は英語力向上に不可欠とされる「理解可能なインプット」の十分な量を確保するために、大変有用であると言われる。 高校生を指導して、多読多聴で大きく英語力を伸ばす生徒の成功例をいくつも目にすることができた。 具体的な多読多聴活動については、別の機会で説明したい。 では高校生は多読多聴活動をどのぐらいの頻度で行えば、生徒自身が効果を感じられるのだろうか。 私の指導経験では、高校生に多読多聴活動を1日40分程度を週4、5回、約2年行うことで、英検に合格したりGTECなどの外部試験でスコアを大幅にアップするといえる。 また大抵の生徒が英語を訳さずに英語のままで読めるようになった、という。長文への苦手意識もなくなる。楽しめるワード数の本も増え、多読をより一層楽しめるようになる。 英文には慣れる一方、英語のスコアは伸び悩む、という生徒も一定数存在する。中には2年で900冊の洋書を読破したにもかかわらず、GTEC試験でわずかなスコアしか上がらない生徒もいて、一体何が問題なのかと頭を悩ませた。 多読多聴は当然ながら、全ての英語学習者にとって万能ではない。伸び悩む彼らに話を聴くと、ある共通点に気がついた。 中学英語の基礎文法知識が、ほとんどないのである。たとえばbe 動詞と一般動詞の違いを知らない、という。英語の語順もわからず、疑問文を作ったりといった統語処理も苦手であることがほとんどである。 多読多聴の時、絵から意味内容を推測し、なんとなく英文を見ている感覚で、洋書を読んでいる。これであると、どうも多読多聴の効果は薄い。 多読多聴で英語力を大きく伸ばす生徒は、みな基礎文法の知識を持ち、話したり書いたりする英語も、主語動詞や語順などの文構造が安定している。 多読多聴は理解可能なインプットの確保に効果的であると述べたが、この理解可能という意味を掘り下げる必要があるのではないか。 学習者にとって英文が理解可能なインプットであるためには、前提として少なくとも中学の英文法の基礎知識が頭に入っていることが必要であろう。 主語と動詞、目的語の構造は見抜けることも求められる。 そこで仮説を立ててみたい。中学英語の基礎文法を総復習し、統語処理の訓練を繰り返せば、多読多聴での英文処理の方法も変わり、理解可能なインプットとなるのではないだろうか。 具体的には、中学3年分の文法事項を網羅した日本語と英語の例文集を使い、日本語を見て瞬時に英語へ口頭で訳すパターンプラクティスを、繰り返し行う。 日本語を英語へ口頭で訳すことで、簡単な英文を作る統語処理を習慣化させるのである。 中学3年分の例文集を瞬時に日本語から英語へ口頭で訳せる力がつけば、統語処理への意識も高まり、大量の英文を読むときも、意味だけでなく、文構造などのも分析できるのではないか。 つまり中学英語の基礎文法を体で身につけたら、多読多聴は理解可能なインプットとなり、多読多聴を続ければ外部英語試験でスコアがより伸びるはずである。 そこで、この1年間、パターンプラクティスを用いて、基礎英文法の定着を行い、学習者にとっての多読多聴での英文処理の変化や、外部試験のスコアの伸長を検証して見たい。