コミュニケーションを取り続ける授業

ある特別授業で、普段教えていない生徒がこんなことを話していた。 「コミュニケーション英語って科目、全然コミュニケーションしてないよね。英文を日本語で一方的に解説されて、終わりだから。英語のやりとりなんてないし」 普段教えていないクラスなので、他の先生をフォローし、「いろんなレベルの人がいるから、英語で授業するとついてこれない人が出てくる。だからあえて日本語を使って教えてくれてるんだよ」と伝えた。納得していない様子ではあった。 私が教えているクラスの生徒に「私たちの英語授業はどうかな」と振ってみた。 「こっちの授業はずっとコミュニケーションばっかりだよ」「ずっと俺たち話してるよね」という。そういう風に捉えていたのかと驚く。 最近は師匠から「授業構成がダメ」と厳しく言われていたので、少しスタイルを変えているが、生徒が集中して楽しそうに取り組むので、骨格は変えずにいる。 授業の流れはこうだ。Picture describing, oral introduction, 英問英答、など。全て英語で授業を行う。その後、本文の説明を15ー20分かけて、生徒と応答しながら行う。本文が長い場合、2時間かけて行う。 最近は思考力を養うため、アナログ教材を使っている。オーラルイントロダクションのレベルを下げ、生徒が内容理解をしやすいように調整している。生徒との応答を増やし、考えさせる場面を増やしているので、「コミュニケーションを取り続ける授業」と生徒が感じるのもわかる。 今日の別の授業では、新しいレッスンを導入したが、授業終了時間になると「え、もう終わり?」「先生の授業、時間すぎるの早いよ」と言われる。楽しい時間はすぐすぎるのであれば、私の授業は楽しいのだろう。これは昔から生徒によく言われる。 これはやはり嬉しい。この点は私の授業の強みかもしれない。 これはこれで良いことだが、一方で思考力を高め、生徒のできることが増えるような授業展開には課題もある。英文の細かな説明になると、つまらなそうな顔が増えるのも、私の指導法の未熟さからだ。改善したい。 そこで目の前の生徒の反応だけに頼らず、指導の基礎基本は身についているかという視点で観ると、謙虚にならざるを得ない。だから今後も師匠について指導技術を磨き、もっとwいい授業ができるようになりたい。

多読授業の標準テンプレート案

イギリスの大学院に留学した時の修士論文テーマは、「サービスの標準化」だった。この時の発想を元に、英語学習の基本フォーマットを開発している。 今は多読学習に標準を絞ってワークシートを作った。英語多読はリーディング力向上や、学習の自律性が高まるなど効果が報告されているが、普通の中学校や高校での導入は容易ではない。多読学習を成功させるには、いくつかの条件があるからだ。 まず十分な蔵書という物理的な面だ。300-500冊の本を揃えないと、自ら好きな本を選んで読むという多読の良さを体験できない。 次に生徒のレベルにあった選書を提案する教師側の提案力も必要だ。スラスラとストレスなく読める本を、段階的に提示するのは、教師の経験とスキルがいるためだ。 次に多読へのマンネリに対する対処もいる。生徒は初めは多読に関心を示すが、その後の取り組みには個人差が出る。単に洋書絵本を読むという行為は、単調だ。一部の読書好きを除けば、読書習慣のない生徒にとって、読書は楽しみではなく、強制された活動でしかない。単に本を読む時間を確保しても、生徒がうわの空なら時間つぶしの域を出ない。 だから多読指導には工夫がいる。多読学習を可視化させ、五感を使った活動を取り入れると、モチベーションが維持できる。 そして多読授業の一回一回に、小さな喜び、もっと力を伸ばしたいと思えるフィードバックの機会を設けると、生徒は達成感を感じやすくなる。その結果、生徒は目の色を変えて読書に取り組む。英語のスコアも伸びる。 こんなことが可能なのか。今はそれを検証している。多読を取り入れたい人のためのワークシートを作り、実際の生徒の変容を追っている。 ワークシートの良さは、作業が標準化されているので、指導側の経験やスキルに左右されず、一定の水準で多読授業を行うことができる点だ。生徒に提供するサービスの質的バラツキを抑えられるので、安定した授業展開が期待できる。 こう言った発想は、多読教育にはみられなかった。多読指導は司書的な要素が求めれるので、どうしても経験豊富な読書好きの教師の得意分野となってきた。だから異端的なワークシートを用いた多読学習は、すでに多読を実践している方からは、理解を得られないかもしれない。 私の立ち位置は、多読へのマンネリ打破や達成感upのための「多読学習支援ツール」提案、である。教師にとって、あくまでTPOに合わせて必要な場面で使える武器の一つに過ぎない。 このワークシートを4ヶ月も使い続けると、生徒も少しずつかわっていくのを感じる。英語を読むだけでなく、書いたり話したりすることへの抵抗も無くなってきた。さらなる実践を続け、論文にまでまとめたい。

ICTを捨て、板書と写真で授業するメリット

教歴の浅い私は、最近は授業を行うことには慣れたが、授業の構成は自己流であった。本当に自分の授業はこれでよいのだろうかと悩んでいた。自分の所属学校では、周囲に授業を見てもらっても、社交辞令以上のアドバイスをもらうことはない。 そんなとき、ある団体が授業ビデオの公募をしていた。英語授業のプロたちに、自分の授業を見てもらえるチャンスだったので、自分の授業ビデオを撮り、送ってみた。選考に通過するかどうかよりも、自分の授業を改善したい一心だった。 案の定、選考には落選した。だがご縁あって高名な先生に授業改善の指導いただけることになった。 私の授業ビデオを見ながら、約2時間にわたり、私の問題点を次々に指摘されていく。ビデオ内の自分の授業を、英語教授法の理論と長年のご経験から、ダメ出しされていく。少なく見積もっても、30個以上の問題点をご指摘いただいた。 もっとこうすべき、と指導される。生徒との応答も、もっと自然な流れを考えろ、と怒られる。発問も、もっとわかりやすい表現を目指せと求められる。漫然と授業してきたことがさらけ出され、情けなく、なにくそと思わされる。 授業一つとってもこれだけ理にかなった指摘ができるのか。師匠の眼力、英語教授法の奥深さを痛感した。 正直に言えば、教師になって一番恥ずかしく、くやしい時間であった。一方で、師匠とのこの2時間が、私の教師としての姿勢を変えてくれた。私はなにか考え違いをしていたのだ。 師匠はおっしゃる。「あなたの表情は、生徒を不安にさせるんだよ」 「教室内のあなたは無表情で、淡々と授業をしているから、冷たい印象を与える。生徒に興味がないようにすら見える。これではだめだ」。 感情を抑え、冷静に授業を行う方が、教師のあるべき姿だと思っていたので、びっくりしてしまった。 「笑顔足りないですよね」というと「それが考え違いだ。表情についてのあなたの考えが象徴されている。笑顔だけが表情ではない!」 「私たちの団体の教師は、みんなハートがあったかいんだよ。まず表情を変えなさい。でも笑顔を振りまけばいいわけじゃない」 「笑顔も表情。興味ありそうに真剣そうに頷くのも、表情。驚くのも表情。表情を自在に使い分けなさい。教師は百面相であるべきだ。表情や態度で生徒を引き付ける。教師は役者なのだから」 思わずはっとさせられた。単に笑顔を見せればいいわけではない。生徒を引きつけるために、表情を使い分けるのだ。良い教師は良い役者。時には道化役も演じなければならない。教師は百面相であるべき、とは衝撃的な言葉だった。 私は「笑わない先生」として生徒の間で認知されているので、たまに笑うと「先生わらってるよ」と反応されるほどであった。もし表情を抑えるより、表情豊かにして授業をおこなったらどうなるのであろうか。ためしてみたくなった。 1ヶ月ほど経つと、複数の同僚教員から、生徒の噂話がとどくようになった。「最近、先生が表情豊かでなんかいいんだよね、って放課後に生徒がいってましたよ。あんなにやさしいひとだったなんで知らなかったって」 「最近授業の冒頭に、みんなやる気ないとき、頑張ろうーってガッツポーズしたり。今までならあり得ない。滑ってるよね(笑)って。生徒は、先生の愛情を感じてますよ」 指導いただいたことを授業で実践してみる。しばらくすると同僚を経由して、私の噂話が耳に入ってくる。あいつは変わったと。それも複数の人から聞かされる。 生徒は教師の表情をよく見ているものである。驚いた。表情を変えよ。百面相であれ。この言葉は、私を変えてくれた。 師匠の助言はさらに続く。 特に役立った助言は、「ICTをやめて、一度板書と写真を使ったアナログ型の授業やってみたほうがいい」というものだった。 失礼ながら「年配者はICTが苦手だからそういうのか」と思った。理由はもっと奥深いものだった。 師匠は、私の無表情や単調な授業の原因が、ICTに頼りすぎている点を見抜いていた。ICTを使うと、授業展開は楽であるが、スライドや写真に頼りすぎ、なにか私という生身の人間を生徒の前に差し出していない、よそよそしいような感覚が確かにあった。 これまでの授業では、ICTでスライドや写真を大量に準備し、板書せず、マウスをクリックしてスピーディに授業を進めていた。これは集中力の続かない生徒を前に、眠る好きをあたえないよう、止むに止まれず始めた授業方法だった。 自分の授業はなんとなく一方通行で、生徒とのやりとりが足りない。うわ滑っているように感じていたのだ。 先生に授業ビデオをみてもらうと、使いこなすべきICTに自分が使われていることに気づく。生徒へ注意を払えず、単に教科書をさらうだけの授業であった。それを見抜いた先生は、一旦ICTを捨て、チョークと写真を使ったアナログ授業をやってみるようアドバイスしてくれたのだ。 ICT一本槍で授業してきた私は、ICT使用をミニマイズし、どうしても見せたい写真以外には使わなくなった。これまで大量のスライド作成にかけていた時間を、オーラルイントロダクション、教材研究や板書案作りに当てるようにした。こちらの方がしっくりきた。 チョークと写真を持って授業し始めると、周囲が「どうしたの」「あれだけ使ってたICTは?」と驚き、心配してくれる。「チョーク一本と写真だけで授業したくなりまして」と言って、時間を見つけて教室で板書練習やオーラルイントロの練習をするようになった。 板書の書き方はこれで良いのか。不安に思って、早速授業の板書案を黒板に書き、先生に写真で送った。するとまず板書のアルファベット一つから直せと指摘される。 英語が苦手な生徒には、綺麗で読みやすいアルファベットを書かないと、認知しづらいためだという。wは角をしっかりつくり、bとdは膨らみを変えて認識しやすくする。スペルはデコボコさせず、平行線に乗るように書く。などなど、細かく指摘を受けた。 それを授業で意識すると、生徒が「読みやすい」と反応するようになった。細部に神々は宿る、という。アルファベット一つに気を配る大切さを実感した瞬間であった。 今思うのは、指導技術というものを、私はいかに軽視してきたか、ということだ。物を教えるということは、沢山の細かな技術で成り立っている。意識して磨かなければ、指導技術を磨くことはできないし、下手くそな教え方のままである。 ICTを使うと、どんな授業もそれなりに見える。見栄えの良いスライド、キャッチーな大画面の写真などは、細かい指導技術の修練なくとも、誰でも準備できる。 しかし一旦ICTを取り外して授業すると、教師は自分の指導スキルをさらけ出さざるを得ない。板書、立ち位置、やりとりなど、基本指導スキルが足りないと、生徒を引きつけ続けられない。 私の学校で、ICT交換時期に慌てふためく同僚がいた。恥ずかしながら私もそうだった。ICTなしで授業できないほど、機器に頼っていたのだ。やはりアナログに立ち返り、基本指導技術を磨くことは、教師の最低条件である。 こうした地味な指導技術は、今の時代に軽視されがちである。「教えない授業」「アクティブラーニング」のような耳心地の良いキーワードが世に溢れ、それを真に受ける若い教師も増えつつある。 例えば研究授業では、教師が教える時間を減らし、その分生徒を活発に活動させるだけで、授業の格好はつく。特に教師歴の浅い授業で、よく見受けられる。 だが細かな指導技術、教授技術に裏打ちされた授業と、そうで無い授業では、パッと見てわかりづらいが、生徒に与える影響に雲泥の差がある。アルファベットの技術一つとっても、疎かにできない。 今日も自分で授業したが、振り返ると「先生に合格点をもらえる授業ではないな」と、落ち込む。オーラルインタラクションの量も質も悪く、生徒に申し訳ないとも思う。もっと指導技術を磨かなければならない。 もしあなたが教師なら、自分の授業を映像にとって第三者に見てもらうと良い。映像とは残酷だ。何気ない授業の一瞬が切り取られ、格好のまな板の鯉になってしまう。 それを指導技術を真剣に磨いたベテランの先輩に見てもらうと、恥ずかしく、厳しいことも指摘される。だが学びは多い。 教師という仕事は、自分が教える立場になるため、人から指摘されることが少ないことを、社会人上がりの私は特に感じる。ともすれば独りよがりになりがちだ。 これを避けるため、英語教育団体に所属して、自分の授業をさらけ出すことが大切であろう。学校内はしがらみや利害関係があり、授業改善に活かせないことも多いので、所属先以外でアドバイスを受ける方が都合がいい。 謙虚さを持ち、基礎指導技術を磨くことが、教師として飛躍する第一歩だと、つくづく感じる。