校正作業の経過

論文の校正作業を進めている。友人3人に読んでもらい、コメントをもらう。専門的な表現、わかりずらい語彙が次々に指摘される。一気に校正作業が進む。このコメントを土台に、団体へ校正案を提出するのが、今週のタスクである。 彼らからコメントをもらい、「こんなものをかいてたのか」「びっくり」と感想を得る。確かに、フルタイムの激務をこなしながら、よくこんな24000語もの論文を書いたな、と我ながら思う。妻は呆れている。今書きなさい、と言われたら、即座に断るであろう。 そもそもこの論文は、たまたま研究計画案の募集があって、そこに応募したのが始まり。まさか選考を通過するとは思わず、忘れたころに受賞通知が来たときは、「そもそも何のテーマで送ったっけ?」と妻と大混乱したのを覚えている。 助成金をもらったので、後に引けずに研究活動を行い、論文執筆を終えたのが実情である。仕事は忙しく、朝は5;30に自宅を出て、 片道90分の通勤時間を使って論文を書き上げた。 綱渡りとはこのことだ。 あらためて思う。私は、人に指示されたことだけをやるのが嫌なのだ。自分の個性、情熱、想いを、なんらかの形にしたいと、常日頃から思っている。実践論文はその一形態である。 大学院で学びたい、という想いを新たにする。今年がだめなら、来年また挑むだけである。 先日、授業の空き時間で、生徒に多読を初めて体験してもらった時のこと。9割の生徒が真剣なまなざしで、易しい洋書を読む。よい雰囲気である。かつて指導した学校で目指した、ぴりっとした雰囲気。受験参考書ばかり解くと、英語が嫌になる生徒が増える。やはりauthenticな素材に触れなければならない。今後は、研究論文で作ったワークシートを使い、授業で多読を取り入れることを目指す。

自ら教材を執筆する力をもて

授業を進めることに追われ、疲弊していた数か月が過ぎた。ふと時間ができたので、以前勤務していた学校で磨いてきた「oral introduction」のモデルを見せることにした。 テーマはリスニング力を鍛えるための、nursery rhyme。パワポを作った。論文を読み、なぜ英語の童謡が英語学習に効果的なのかをまとめた。絵も作り、テンポよく提示する。生徒に聴かせ、言わせる。 2つのクラスで試したところ、普段反応のないクラスでも笑顔が生まれる。もう一つのクラスでは爆笑、集中して取り組んでいる。このコンテンツは、それ自体に力がある。うまくオーラルイントロダクションを行い、楽しく英語のリズムや発音を学べる。進学校でも進路多様校でも「動作保証」のある、鉄板コンテンツになりうると確信した。 教師になると、「模擬授業をしてくれ」「公開授業の担当をお願い」「動画で授業を配信するので録画させて」といった依頼が、突然舞い込んでくる。 そんなとき、自分オリジナルのコンテンツを持っておくと、大変便利である。自分のコンテンツなら、動画配信もOK。時間も6分から50分まで、変幻自在に対応できる。その素材で、英語教師や一般人に対して、3時間の講習を担当できるぐらいのパッケージにもできる。 このコンテンツを土台に、論文を書いたり、教育実践報告書を作ってもいい。一つの仕事から、何倍ものインパクトを与えるようなアプローチを目指すのは、教師の仕事をする上で極めて重要である。 英語教師を志す人、すでに英語を教えている人、いずれにしても、教科書を教えるだけではなく、「みずから教材を作って教える力を持て」という、森信三先生の教えは、今も輝きを失っていない。 大学院では研究力だけでなく、コンテンツ作りの力も磨きたいものである。 独自コンテンツを持てば、仕事の質が変わる。

校正作業を依頼する

論文校正を友人に依頼している。信頼のおける、国語教育のプロ、広報のプロ、日本語を操るプロの3人に、論文の第1稿を読んでもらうことにした。 日本語の誤字脱字などを見てもらうのが目的だが、もう一つ、私の書いたものを読んで、英語多読の面白さを知ってほしいという、裏の目的もある。そうでもしなければ、彼らは私の論文をよむことはないだろうから。 みな二つ返事でOKしてくれた。論文の構成は、すでに妻に一読してもらい、初めて読む人にわかりやすいよう項目を変えた。この作業も大変時間がかかったが、おかげで誰が読んでもわかる内容に仕上がっている。 妻とは英国シェフィールドのELTC(大学院準備コース)でともにライティングのクラスを取り、私たちは二人とも、厳格な女性教師の個別指導を徹底的に受けた。いまだに忘れられない。 Anne という英国人教師で、笑顔一つ見せず、私のライティングを切っていく。意味が分からない、なぜこの順番だ、これは不必要だ、、、など、詰問攻めである。英文を書くということが、これほど頭をつかうことなのか。私は生まれて初めて思い知った。 彼女を含め、質の高い英語授業を体験し、感動した私は英語教師へキャリアを変えた。 この時の経験があるから、私は自分のライティングも、Anneを想定して自問自答する。妻も、Anneになり切って、私の書いたものを問い詰めていく。この作業が、ライティングの質を高める。 さて、論文の根幹が決まったので、あとはマイナーな修正である。日本語の校正作業は、初めて読む人にお願いしたほうが効率的である。友人に読んでもらうのがよい。多様な視点で改善したい。 大学院の研究テーマも、ライティングの視点で考えてみたいとも思う。日本のライティング指導は、英国のそれに遥かに遅れている。論文をよもう。

大学入試対策に思う

大学受験に取り組むことのメリットは、知識を体系的に学べることである。例えば日本の大学に入りたければ、入試を突破する必要がある。AOや推薦でなく一般受験を目指す場合、受験対策参考書や問題集を解く。これが一般的である。 たしかに知識はつく。ある程度、入試問題も解けるようになる。 しかし、英語の運用力がついているか、という点は別の話。ただ入試問題を解いているだけの学習の限界がある。 まず、英語の伸びしろがない。英語の大量のインプットとアウトプットなしに、英語は伸びない。目の前の生徒を見ていて、改めてそう思う。ただ〇XTAGEを回転させても、いったいどれほど英語の運用力がのびるのであろうか。どうせ参考書を学ぶなら、徹底的に、アウトプットできるまで暗記する覚悟が必要だろう。例文を瞬時に諳んじられるとか。でも、そこまで取り組むには、知識の整理を目的とした参考書では荷が重すぎる。なによりつまらない。 次に、学習者に英文を書かせた場合、力のなさが一気に噴き出る。英語圏では「そうは言わない」という表現で英文を書く。受験勉強の限界である。大量の英文に触れていれば、そうは言わない、というのがわかるはずなのに。 文法的にもおかしく、書いたり話したりするのもしっくりこない英語である。生きた英語に触れない弊害だ。これだと、学習者にとって英語は生きた言語ではなく、単に大学受験の科目であり、突破すべき敵ですらある。英語を好きになることなどあるのだろうか。このままでは学習者があまりにも不憫である。 大学受験対策でまなぶ明示的な知識は、それはそれで貴重である。英文を理解し、正しい語順で書くためには不可欠である。だが、それをもっと活かすため、大量の英語のインプットが欲しい。生きた英語に触れ、異文化の考えを学ぶ。翻って日本の文化を知る。 受験指導を垣間見て、最近は受験参考書の学習と英語多読のハイブリッドに、可能性があるような気がしている。多読だけでも、受験参考書だけでも、伸びは止まる。掛け合わせ、両方をいいとこどりで取り入れたい。 授業で多読を取り入れられるよう、簡易的なプログラムの開発を考えていこうと思う。

「うぉ」という反応

勤務校は授業進度が早い。こなすべき課題も多い。自分のスタイルを捨てることを決めた。今年はオールイングリッシュで授業するよりも、英文の確実な内容理解を優先した方がいいと思い、ICTで英文を提示しながら、応答を交えて英文を説明する、という授業を行っている。 内容理解度は上がる。だがこれは言語教育なのだろうか、と自問自答する。教室内の空気は重い。 授業進度に余裕が出た時、教科書の内容を再話する活動を行った。本当は教師側が手本を見せるのが先だが、まず生徒にやらせてみた。能力が高いのをわかっているためである。 結構苦労しているようなので、即興で私自身がやってみせた。指導手順としてはいけないのであるが。 応答を交えたオーラルイントロダクションのようなものである。時間は1~2分程度。長々と話しても仕方ない。戦国時代、足軽が大群の前でやりをつつき、さっと退却するようなイメージである。それでも、終わった後に教室から「うぉ」と声が複数からあがる。 私自身が一番驚いた。目の前の学習者は、英語を大学入試のツールとしか認識していない、と思っていた。私の説明にも無反応なので、英語に関心はないのでは、とすら思っていた。 でも心の底では、英語を操れるようになりたいと思っている。わかりやすい英語で情熱をこめて話す姿を見れば、それに反応する。七転八倒して英語を学んできた私の姿を、生徒にさらす。憧れの対象か、それとも乗り越えたい憎悪の目標か。どちらにしても、学習者にロールモデルを提示し、同意、疑問、反発でもいい、何らかのポジティブな化学反応を教室内で起こすことが、教育には必要なのだろう。 おちついたら、英語で授業する比率を高めようかな、と思い直した一日であった。 生徒を引き付ける実践力を持ちつつ、理論も研究もできる。生徒を動機付け、憧れ、羨望、嫉妬の対象になり、「あいつができるなら、おれだってできる。乗り越えてやる」と思わせるような、ロールモデルとしての英語教師になりたい、と改めて思う。