自ら教材を執筆する力をもて

授業を進めることに追われ、疲弊していた数か月が過ぎた。ふと時間ができたので、以前勤務していた学校で磨いてきた「oral introduction」のモデルを見せることにした。 テーマはリスニング力を鍛えるための、nursery rhyme。パワポを作った。論文を読み、なぜ英語の童謡が英語学習に効果的なのかをまとめた。絵も作り、テンポよく提示する。生徒に聴かせ、言わせる。 2つのクラスで試したところ、普段反応のないクラスでも笑顔が生まれる。もう一つのクラスでは爆笑、集中して取り組んでいる。このコンテンツは、それ自体に力がある。うまくオーラルイントロダクションを行い、楽しく英語のリズムや発音を学べる。進学校でも進路多様校でも「動作保証」のある、鉄板コンテンツになりうると確信した。 教師になると、「模擬授業をしてくれ」「公開授業の担当をお願い」「動画で授業を配信するので録画させて」といった依頼が、突然舞い込んでくる。 そんなとき、自分オリジナルのコンテンツを持っておくと、大変便利である。自分のコンテンツなら、動画配信もOK。時間も6分から50分まで、変幻自在に対応できる。その素材で、英語教師や一般人に対して、3時間の講習を担当できるぐらいのパッケージにもできる。 このコンテンツを土台に、論文を書いたり、教育実践報告書を作ってもいい。一つの仕事から、何倍ものインパクトを与えるようなアプローチを目指すのは、教師の仕事をする上で極めて重要である。 英語教師を志す人、すでに英語を教えている人、いずれにしても、教科書を教えるだけではなく、「みずから教材を作って教える力を持て」という、森信三先生の教えは、今も輝きを失っていない。 大学院では研究力だけでなく、コンテンツ作りの力も磨きたいものである。 独自コンテンツを持てば、仕事の質が変わる。

校正作業を依頼する

論文校正を友人に依頼している。信頼のおける、国語教育のプロ、広報のプロ、日本語を操るプロの3人に、論文の第1稿を読んでもらうことにした。 日本語の誤字脱字などを見てもらうのが目的だが、もう一つ、私の書いたものを読んで、英語多読の面白さを知ってほしいという、裏の目的もある。そうでもしなければ、彼らは私の論文をよむことはないだろうから。 みな二つ返事でOKしてくれた。論文の構成は、すでに妻に一読してもらい、初めて読む人にわかりやすいよう項目を変えた。この作業も大変時間がかかったが、おかげで誰が読んでもわかる内容に仕上がっている。 妻とは英国シェフィールドのELTC(大学院準備コース)でともにライティングのクラスを取り、私たちは二人とも、厳格な女性教師の個別指導を徹底的に受けた。いまだに忘れられない。 Anne という英国人教師で、笑顔一つ見せず、私のライティングを切っていく。意味が分からない、なぜこの順番だ、これは不必要だ、、、など、詰問攻めである。英文を書くということが、これほど頭をつかうことなのか。私は生まれて初めて思い知った。 彼女を含め、質の高い英語授業を体験し、感動した私は英語教師へキャリアを変えた。 この時の経験があるから、私は自分のライティングも、Anneを想定して自問自答する。妻も、Anneになり切って、私の書いたものを問い詰めていく。この作業が、ライティングの質を高める。 さて、論文の根幹が決まったので、あとはマイナーな修正である。日本語の校正作業は、初めて読む人にお願いしたほうが効率的である。友人に読んでもらうのがよい。多様な視点で改善したい。 大学院の研究テーマも、ライティングの視点で考えてみたいとも思う。日本のライティング指導は、英国のそれに遥かに遅れている。論文をよもう。

大学入試対策に思う

大学受験に取り組むことのメリットは、知識を体系的に学べることである。例えば日本の大学に入りたければ、入試を突破する必要がある。AOや推薦でなく一般受験を目指す場合、受験対策参考書や問題集を解く。これが一般的である。 たしかに知識はつく。ある程度、入試問題も解けるようになる。 しかし、英語の運用力がついているか、という点は別の話。ただ入試問題を解いているだけの学習の限界がある。 まず、英語の伸びしろがない。英語の大量のインプットとアウトプットなしに、英語は伸びない。目の前の生徒を見ていて、改めてそう思う。ただ〇XTAGEを回転させても、いったいどれほど英語の運用力がのびるのであろうか。どうせ参考書を学ぶなら、徹底的に、アウトプットできるまで暗記する覚悟が必要だろう。例文を瞬時に諳んじられるとか。でも、そこまで取り組むには、知識の整理を目的とした参考書では荷が重すぎる。なによりつまらない。 次に、学習者に英文を書かせた場合、力のなさが一気に噴き出る。英語圏では「そうは言わない」という表現で英文を書く。受験勉強の限界である。大量の英文に触れていれば、そうは言わない、というのがわかるはずなのに。 文法的にもおかしく、書いたり話したりするのもしっくりこない英語である。生きた英語に触れない弊害だ。これだと、学習者にとって英語は生きた言語ではなく、単に大学受験の科目であり、突破すべき敵ですらある。英語を好きになることなどあるのだろうか。このままでは学習者があまりにも不憫である。 大学受験対策でまなぶ明示的な知識は、それはそれで貴重である。英文を理解し、正しい語順で書くためには不可欠である。だが、それをもっと活かすため、大量の英語のインプットが欲しい。生きた英語に触れ、異文化の考えを学ぶ。翻って日本の文化を知る。 受験指導を垣間見て、最近は受験参考書の学習と英語多読のハイブリッドに、可能性があるような気がしている。多読だけでも、受験参考書だけでも、伸びは止まる。掛け合わせ、両方をいいとこどりで取り入れたい。 授業で多読を取り入れられるよう、簡易的なプログラムの開発を考えていこうと思う。

民間出身だからわかる、教職のおもしろさ

世間では、教師という仕事へのネガティブな報道が増えている。教職を志す若い人が減っているという話も聞く。公教育の教員採用倍率は、小学校では2倍程度と過去最低水準である。こうした報道も影響しているのだろう。 民間企業を経験し、留学後に免許を取得して教師になった私は思う。教職は、面白い。組織に属しつつも、出世を目指さずに自己実現が可能な、まれな職業である。 先日上司に呼び止められた。何かしでかしたのだろうか。 「君、前年度の評価に対して、上層部から修正が入って、最上位にランクしたよ。ボーナスがちょっとは上がると思う」と言われる。 上司が立ち去ったあと、意外で、茫然と立ち尽くす。 身を粉にして部活に打ち込むわけでもなく、残業して職場に張り付いているわけでもない。子育てのため、定時に帰宅する。そのために仕事を極限まで効率化する。職場への貢献度は高いわけではない、と自分でもわかっている。 だが、評価は修正されたという。なぜか。それは、私が教育実践を論文に発表したり、公開講座を開催して一般の方に授業してきた活動が、ある層の目にとまったのだと思う。だれの指示でもなく、自分がやりたくてやったことである。目の前の生徒が喜ぶことを、世に問うようなフォーマットで提示しただけである。 教師という仕事に転職してから、私はお金に対する関心がなくなった。なぜか。仕事自体が面白く、常に学ぶことが求められる。よい授業をするための努力は楽しい。身銭を切って研修を受けたり、書籍を購入する。生徒の反応が変わる。このサイクルが面白いのである。金銭的報酬はどうでもよいのである。 教職は面白い。民間出身だからこそわかるすばらしさがある。 学校は知と経験の宝庫である。暗黙知で溢れている。教えるプロは、学びのプロでもある。民間企業で語られる雑談と、職員室での雑談はまるでちがう。低俗な話題か、それとも高度な専門分野から時世を切る知的な会話か。もちろん後者である。それが、多様な教科の先生の口から語られる。理科社会から古典国語、数学や芸術など。 学校は実社会とかけ離れている。浮世離れしているが、一方で神羅万象のかなりの部分を反映していたりもする。そこが面白い。 教育は経験がものをいう。ベテランの味は大切。だが、若い人の突破力も極めて重要である。若者よ、ぜひ教職をめざしてほしい。学ぶことが好きなら、〇。 ストレートで大学から教職に進むのもよい。教育学をキチンとおさめた、正論を語れる「ザ教師」は、教育現場に欠かせない。だが私は民間企業で働いた後に教師になるのもよいと思う。 民間出身の私は思う。教育はやりがいに満ちている。効率を度外視してのめりこめる魅力がある。一方で教師のプライベート生活も大切だ。民間を経験すると、この辺りのバランス感覚が身につく。 多様性が組織の強みとなる。いろんな教師がいていい。子供は100人の「よい」大人と接して成長する、という。教師の多様性が、生徒の可能性を拓く。 若者よ、興味があるのなら、恐れず教育の世界へ飛び込んでほしい。 アドバイスを。人に負けない、自分の武器を持つこと。好きなことを磨き続けること。身銭を切って学び続けること。人と協調性を持ちつつも、ある局面では「相手と刺し違える(あくまで比喩です)」気迫と覚悟を養うこと。

実践研究論文 第1稿校正開始

昨年執筆した教育実践研究論文の第1稿が印刷され、団体より返送された。これを3者で読み込み、赤字を入れて校正作業を行う予定である。返送までは1ヵ月と短い。 執筆を終えたのが4か月前である。遥か昔に思えるのは、いま自分の置かれている環境が論文執筆時とくらべて激変しているからであろう。 再読すると、「これを自分がかいたのだろうか」と思う。内容には稚拙な部分はあるが、研究の動機は明確であり、目の前の生徒の課題を解決するために行った研究であることが誰にでもわかるであろう。 助言者の元教授からはこう言われた。「賞の選考委員からは否定的な意見があったが、私が推した。高校だけでなく、小中学校の先生にとって役立つような論文に仕上げてほしい。多読を取り入れるためのマニュアルのような内容だ。」 「あなたの研究もあるだろうから、その部分は大切にして。だが、論文を読む人が研究者ではなく、教育実践者であることをわすれないように。モデル授業案や読書リストなどを盛り込んでほしい」 この言葉を胸に、とにかく現場の教員が英語多読を導入するときに参考になる内容を心掛けた。公立の進路多様校で、4年間の多読教育に取り組んだ結果をまとめたので、一部の私立や上位校でなく、公立校でも安心して使えるという動作保証がある、極めてまれな教育実践論文だと自負している。 大学院への準備もあり、忙しい。大学院では自分の研究を深めたいという希望が明確になってきた。独学での論文執筆には限界を感じ、研究手法を身に着けたいと痛感。だが道のりは厳しいし、合格の見込みも薄いが、一歩一歩続けるだけである。