希望の言語教育

先日、スピーキング試験を実施した。

教科書の内容を、写真とキーワードを見ながら、外国人講師に英語で伝えるリテリングという活動である。

密室で外人に英語で話すという場を設定するだけで、びっくりするほど生徒が生き生きと英語を話す。

事前準備もたくさんやる生徒が増える。音読40回してくる生徒はざらだ。

緊張したと言いながらも、みな充実感を漂わせて試験室から出てくる。

自分の英語が伝わったのがわかって楽しい、もっと発音を良くしたい。。。など感想も前向きだ。

言語教育とは、学習者に何らかの希望を与えるものであってほしい。異文化の人と理解し合えるとか、視野が広がるとか。もっと成長したいという意欲を育むとか。

リテリングまで指導するには、こちらも英語力が必要だし、教材準備に時間もかかる。

斉藤孝の国語教科書 小学1年生

これは致知出版社から出ている、小学生1年生~中学年向けの音読用テキストである。

ページを開くと、まず福沢諭吉の『学問のすすめ』が現れ、面食らう。小学1年生向けと題したテキストに、である。

小説は次のようなものが掲載されている。宮沢賢治の『よだかの星』、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、新見南吉の『ごんぎつね』、夏目漱石の『坊っちゃん』などなど。

3歳の息子にはまだ早いかな、と思いながらも、いい本だなと思って購入した。

子供がおもちゃで遊んでいるとき、その横で私はこの本を音読していた。私自身の楽しみのためである。いいはなしだなあ、と思って『よだかの星』を読んでいると、子供が私の膝のうえに乗ってきて、私の音読を聞いている。

そんなことを何日か繰り返していると、ある日、「よだかの星、読んで」と子供が言ってきた。

え?と思ったが、膝の上にのせて、テキストを開きながら、読み聞かせする。

絵が少ないので、登場人物が話から消えた時、「鷹さん、どこいっちゃったの?」などと、何度も何度も質問してくる。驚いた。

『よだかの星』が気に入った子供は、途中で、私とロールプレイをやり始める。鷹とよだかのセリフを、交互に話して、楽しそうに笑っている。読み聞かせした表現を覚えてしまっているのだ。

斉藤孝さんはこう書いている。

「・・・現在の小学校1年生の国語教科書を見ると、絵や写真が多くて力強さがたりません。」

確かに小学校の教科書を見ると、絵本かと思うほど、絵や写真が多い。一方で、この本は、絵が少ない。文字ばかりである。

だが、内容のある、磨かれた表現であれば、子供は食いつく。面白がって読み始めたり、暗唱し始める。

この本は、推奨年齢は小学校1~3年と書かれているが、3歳からでも十分に使えるものである。


母語の基礎を豊かにするための外国語教育

我々はなんのために「英語」を学ぶのであろうか。

この問いは、学ぶ対象をいわゆる「英語」ととらえるか、さまざまな「言語としての英語」ととらえるかで、答えも変わってくる。

『新英語教育』2000年5月号に、元東京外語大学の若林俊輔先生が、「言語教育の目標」についてこう書いている。

「(1)言語は(どのような形・方法にせよ)人間の生活に十分に深くかかわるものであることを知ること、および体験すること。

2)言語は民族(あるいは、集落や地域など)ごとに異なるものであることを知ること、および体験すること。

(3)それぞれの言語には特有のルールがあることを知ること、および体験すること。

(4)言語は、多言語とのかかわりによって、それぞれに独自の変化をするものであることを知ること、および体験すること。

(5)言語は、人を生かすことも殺すこともできる存在であることを知ること。

外国語(英語)教育は、この(1)~(5)を基本としなければならない。」

そして最後に「課題」として次のように提言を結んでいる。

「上記「基本」は、本来、母語教育においてその「基礎」が築かれていなければならないが、日本の「国語」教育はこれとは無縁の存在である。そして、外国語教育は、その本来築かれているはずの「基礎」の幅、あるいは厚みを、さらに豊なものにすることに奉仕するはずのものだが、これまた、言語教育とはかけ離れた状態のまま現在に至っている。21世紀初頭の課題である。」

この文章が書かれたのは、いまから約20年前である。私は思わず頭をガツンとやられた気がした。

恥ずかしながら、は英語を実利的な面からしか、教えていなかった。私は外国語大から教員になる、といういわば英語教師の王道、エリート街道とは無縁の、雑草、路傍の石、どこの馬の骨ともわからぬものである。そもそも、外資系企業で異文化に触れ、そこからイギリスでビジネスの修士を取った背景がある。そこで「実際に使える英語力を育てる」という、イギリスの実用英語教育のすばらしさに触れて、教師を目指したので、無理もない話である。

生徒に英語をすきになってほしい、英語をつかいこなせるようになってほしい、世界に羽ばたいてほしい。英検資格などを取ってほしい。等々。そんな程度の思いで、これまで英語を教えていた気がする。もちろん、海外留学経験やビジネス経験から、日本人が実利的な英語能力を身に着けることは大切であることは重々わかっている。しかし、それだけでよかったのかと、この記事を読んで考えてしまった。

先生が言われた、「外国語教育は、本来築かれているはずの(母語による)「基礎」の幅、あるいは厚みを、さらに豊かなものにすることに奉仕するはず」という視点は、恥を忍んでいえば、持ち得ていなかった。

この視点に立てば、生徒を早い段階から英語漬けにすることは、立ち止まって考えなければならないはずである。2020年より小学校で英語が教科化されるが、それは母語である日本語でどっしりとした基礎を教え込んで初めて意味を持つ。単なる挨拶、簡単な会話を学ぶことは、英語に慣れる意味はあっても、それ以上の価値はあるのであろうか。

私は、全国通訳案内士の面接試験で、通訳技能の問題を体験した。留学を経て、大量の英文を処理し続けた結果、英語を英語のままで理解することができるようになったので、日本語を英語に通訳することは、正直言って好きではなかった。通訳案内士であるにも関わらず、通訳に興味がなかったのだ。

試験は、それこそもともとの英語力と、日本文化知識で、日本語の文章を読んだあと、意味をイメージし、その意味を英語で説明した。厳密な通訳とは言えないが、必要な情報は伝えられた。結果として合格したが、この日本語を英語に通訳することの意味を、通訳案内士の仕事としては必要があることはわかるが、いま英語教師をしている私には、どうにも縁遠いことのように思えた。

だが、若林先生の提言を読んで、日本語と外国語(ここでは英語)の世界を行ったり来たりすることで、気づきを得たり、新しい知見を得たりして、母語という言語の基礎の幅や厚みを豊かにするとしたら、これは「通訳」すること自体にも価値があるのでは、と思うようになった。

日本語を見て英語に通訳するとき、適切な英語が思い浮かばないことがある。文化の違いで、ぴたっと一致する言葉が存在しないこともあるだろう。

逆に海外から輸入された日本語を、なんの疑問も持たずにつかっていることが多いが、英語で何というかを考えて、その理由を分析すると、一気にその言葉の意味が広がって理解できる。例えば、紫外線と赤外線。英語で何というか、なぜそういうのかを調べると、その英単語は二度と忘れないほど、頭に入ってくる。その説明がすっきりしていて、逆に日本語での意味も、よく理解できる。母語の基礎の幅、厚みを豊かにする一例であると、若林先生は説明されていた。

英語を効率的に学ぼうとすれば、母語を捨てて、英語の世界に浸ればよいと考えるのは当然であろう。単語を沢山覚える、英文を早く読む、テストでよい点数を取るなどなど。

だが、外国語の能力は、結局は母語の土台の上に築かれるものであり、それ以上にはならない。その母語の土台は、効率一辺倒で取り組めば、幅広く、厚くなるものではない。

母語の基礎という土台を豊かにするために、母語と外国語との接触という、他の異質な刺激を手に入れられるということに、外国語を学ぶ意義があるとも言える。だから外国語学習では、母語である日本語を全否定せず、日本語と外国語を行ったり来たりすることに、ある程度寛容でありたい。そしてある程度の遊びや、一見無駄に思えるようなこと、立ち止まって考え、試行錯誤することを取り入れる余裕を持ちたい。

そして母語の基礎という土台の上に、専門性や専門知識を築き、それを外国語 をつかって他者とコミュニケーションしたり、逆に外国語をつかってインプットを手に入れ、母語の専門性に還元していく。

母語の基礎、土台を豊かにするための外国語教育であるならば、母語と外国語を行き来する「通訳」は、そこに何等かの気づきが学習者にある限り、意味がある学習法の一つになりうるのではと、通訳案内士は思う。20年前の若林先生の提言は、これまで通訳自体にあまり興味がなかった通訳案内士の私が、教育上の意義を感じる契機となった。

Goethe said it best: ゲーテは最もよく言いあらわした。

Those who know nothing of foreign languages know nothing of their own.

外国語のことを何も知らない人は、母語のことも何も知らない。