自分の弱点をさらけ出さずに  人から利益を受けられない。

公文式の教室に子供を連れて行く。その子供が学習中、近所の喫茶店で一服するのが唯一の息抜きである。

4歳の息子は、公文式の教室学習を終えると、近くのベーグル屋さんでお買い物をすることがお気に入りだ。

こんにちは、今日は何のぱんがありますか。

と質問し、私から渡された小銭を、店主へそのまま渡す。

まだお金の概念がわからないが、これは?と聞くと100円、これは1000円と答える。

お釣りをもらい、嬉しそうにお礼を言って退店する。彼にとってお買い物ごっこである。

公文式に通い始めた半年前、3歳半の頃は、数字に興味を示さない、家庭で数字に触れさせて、と先生よりアドバイスをいただいた。

絵本の読み聞かせをゼロ歳大丈夫から続け、日本語への反応が良いから、余計に数字への無関心が目立ったという。

数字へ意識を向けさせることを続け、最近は100まで順唱したり、興味が出てきた。気づきを与えてくれた先生に感謝である。

そこで配られる教室便りに、夏目漱石の言葉が紹介されていた。

「自分の弱点をさらけ出さずに  人から利益を受けられない。
 自分の弱点をさらけ出さずに  人に利益を与えられない」(夏目漱石 『断片』より)

教師をしていると、その通りだと思う。行きていく上で自尊心は大切だが、高すぎるプライドは成長の機会を奪う。

相手に何かを教えようとするとき、「伝わったな」と感じる時がある。私の恥ずかしい過去や、泥臭い経験を話し、自己開示したときだ。自分の弱点をさらけ出したとき、相手は心の鎧を脱ぎ、ようやく相手に利益を与えられる。学ぶ態勢、レディネスが高まるのだろうか。

また私がある団体に、自分の授業ビデオを送り、賞へ応募したことがあった。お世辞にもうまい授業ではなく、当然選に漏れたのだが、「変なの送ってきた奴がいる。こいつをなんとか上達させてやらないと、かわいそうだ」と、指導してくださる方が現れた。

授業ビデオを送るということは、自分をまな板の鯉にすることだ。むき出しの自分がさらけ出される。こうした自分の弱点をさらけださずして、改善点を指摘する人は現れない。結局、相手から利益を得られない。

自分の弱点を認識し、つまらないプライドを捨てて、相手にさらけ出す。そうすると、弱点というのは、案外「強み」にもなるのかもしれない。